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私の天秤の上、全部いっしょくた

「こたにな々 日記帳」 文から何も気付かなくていい、それだけが私の願い。

「大塚幸代さんがもういないのを知った日」

 

 

土に沿って風に、陽が頬を射した4月の日曜日の午後、

大塚さんがいなくなったのを私は、インターネットで知りました。

 

 

「大塚さんがもういないのを知った日」

--

 

◆4月が数日も過ぎて、胃を痛めた去年の春もどこへ、

また同じような春が来てしまったって思って、後悔して(謝った。)

 

夢で父親に「お前はおかしい」と言われ続け、

「違う!」って泣きながら言った私は、目覚めると

やっぱ泣いていた。

夢だと分かったままで、まだずっと泣いていた。

 

 --

2015年4月5日

 

最悪な気持ちでも、起きればツイッターを開く。

最悪な気持ちだからこそ、たぶんツイッターを。

 

大塚幸代さんのこと』

 

っていう誰かが書いたタイトルのブログURLが

タイムラインに回ってきていて、

なぜか瞬時に私は、

 

「あ。大塚さんは死んでしまった」と思った。

 

 -

こんなとき息が止まる、嫌だった、

URLをタップした。

雰囲気は裏切らなかった。

まだ実感も、事実かも分からないまま、

私は誰かが「大塚さんの記憶と人生を締めた」場面を見てしまった。

 -

 

◆大塚さんが執筆していた「デイリーポータルZ」には

2日前に正式な訃報記事が出ていた。

http://dpz.cocolog-nifty.com/q/2015/04/post-5866.html

(その2日のタイムラグは最近追えていなかった距離だと私は思った。)

 

生前関係していた人たちのツイートを遡ると、

もっと数日前から皆

意味深なことを言い、

 

泣いていた。

 

死因は公表されていない。

事情を知っているかもしれない人たちは、口々に、

「うっかり」死んでしまった、と言っていた。

本人も死んだ事に気付いていないかもしれないくらい、「うっかり」って。

 

「うっかり死んじゃわないでください!大塚さん!!!」

  

 

途端に悲しくなってきて、理由もなく涙が止まらなかった。

もう会えないし、もう文章が発表される事、

長年悩まれ続けたり、悔しがったり、可愛いものを愛でたり、

新譜をチェックしたり、もう止まってしまった。

もう言ってくれない、もう言葉を残してもらえない。

この世に居ないというのは、人が死ぬというのは、

どうしてこんなにどうしようもなくて。

 

 

「なんで泣いてるの」と家人に聞かれたけど、

あまりにも悲しくて口に出したらもう終わりで、言えなかった。

 

 

◆私がライター「大塚幸代」の事を知ったのは、

フリッパーズ・ギターのファンジンでも、クイックジャパンでも、

デイリーポータルZ」でもなくて、(もう10年以上も前なんだ)

2003年~2006年頃、インディーズの一部で密かに盛り上がりを見せていた

ネオ渋谷系」という、今となっては本当にあったのか無かったのか

分からないような小さなムーブメントの中だった。

ネオ渋谷系 - Wikipedia

 

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思春期を迎えたその時、フリッパーズ・ギターなんて当然のようにいなくて、

20世紀の影ばっかり追いかけていた私には、

複数のインディーズレーベルから、こんなに同時多発的に

渋谷系」の形を持ったアーティストが現れたのが嬉しくて、

一瞬の出来事だったけど、リアルタイムで追っかけれたお祭りみたいな時間だった。 

 

そんな中で大塚さんを、リアルタイム渋谷系のサブカル重要人物である

ことも知らずに、ネオ渋谷系の中心人物「tetrapletrap川島蹴太の、

彼の活動の中で知った。

 

2人が共作した「ベイビー・ポータブル・ロック」似の曲とか、

それを作るまでに至った2人の会話文とか、

あの時、この界隈の人たちの行動や活動は繋がってて、

mixiネットラジオが流行っていた、

アーティスト同士のやり取りが可視化されてきていた時代だった。

ファンとしてはそれを追っかけるのが楽しくって、

そうすると、よく大塚さんの名前に当たることが多かった。

 

 

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◆もしかしたら、そんなことなかったかもしれないけれど、

数回でもどうしても忘れられなかった。

 

大塚さんの日記にたどり着く。

 

私は中学生活だろうが、高校生活だろうが、大学生活だろうが

いつも上手くいっていなくて、

 

大塚さんの日記を、詩を、数年分、夜を徹して、

来る夜も、来る夜も読んでは

消えない言葉を、入ってしまった言葉を、ノートに沢山書き出した。

 

-

大塚さんの日記は

箇条書きのように、とりとめなく、その日あった誰かの動作とか描写とか。

思ったこととか、好きなアイドルグループのこととかが、

短くただ数行で書かれているのに、

いつもその数行の中にキラーフレーズがあって、忘れられなくて、

誰かが日々の中で生きている呼吸を感じた。

 

 

◆私の目には大塚さんはいつも悩んで見えた。

私が知った30代も、わずかな40代も。

自分の女性としてのコンプレックスや、愛される事、

御両親との距離感や、物書きとしての苦悩。

 

自身をカテゴリに振り切る事や言い切る事も許さず、

ただ一人なんとしてでも生きていらっしゃった印象がある。

 

 

いつかのブログで、自分の文章の価値の話をされていた時、

私は誰にも見えないだろう山上の田舎の部屋の片隅で、

「ここにいます!」

「あなたに人生を支えられた、一生忘れないだろう言葉を持って

 人生を生きていく女」が「ここにいます!!!」

ってどうしても手を挙げて伝えたかった。

 

 -

 

◆その後、大阪でのエイプリルズのライヴでニアミスしたり、

「グーグーは猫である」の映画エキストラに少し出ているのを

ブログで知って、一人で見に行ったけど。結局分かんなくて。

エンドロールの小さな名前を見て舞い上がったりして、

私は大人になった。

 

 

◆2012年、17才の夜から7年が経った夜。

私は友人を介して「間取り図ナイト」というイベントで大塚さんを前に震えた。

 

大塚さんは黒目がちで。

「話し声が歌声と同じですね」って思わず言ってしまった。

隣に座ってくれて色んな事を話した。

 

ネオ渋谷の事とか、小沢のツアーの事とか、

私が大学で作った本も読んでくださった。

 

私、もう精一杯の言葉で、大塚さんの文章を読んできた事を伝えた。

馬鹿みたいなテンションだったかもしれない。

 

帰り際、もう一回ちゃんと言わなくちゃと思って

握手してもらった時に「書くのやめないでください!」って私は言った。

(気軽に言ったわけじゃなかったけど、誠心誠意言えば言うほど、

この言葉のフレーズの重みに気付く歳に私は今なった)

 

-

数日後、いつも見てたブログに私の名のイニシャルと、

別れ際言った言葉を書いてくれていて、

「人生ってなんて!」って実感した。

http://blog.hibi.her.jp/?day=20120621

(『「書くの辞めないでくださいね!?」って言われちゃった。どうしよう。』

って書いてあった)

 

 

◆その次の2013年、大塚さんの電子書籍出版記念イベントへ会いに行った。

あの時の者です、って、

伝えたい事を再度思いっきり伝えた。

大塚さんは照れながら「ほんとですか!?」って驚いていた。

「ほんとです!!」って私は念を押した。

 

イベントは大塚さんのひとつの集大成で、酒樽があって、大勢の人が居て

和やかで明るかった。

ニアミスでちゃんと帰りの挨拶が出来ずに、側を通ったのを

少し心残りにして、

そのまま大塚さんにお会い出来たのは最後になりました。

 

--

 

◆2015年。

私は「偲ぶ会」に行くかギリギリまで悩んだけれど、結局行かなかった。

きっと、近しい著名な人たちが集まるだろう場に怖じ気づいた。

ツイッターで同じようなファンの方が、

「行かなきゃいけない」って気持ちに従って、

恐る恐るでも、すぐ後にする事になっても向かったのを見て、「正しい」と感じた。

 

 

「私、行かなかった」と思った。

 

 

-

 

大塚さん、私最後のお別れも言いに行かない

こんなファンですが、

あなたの文章が、あなたの事が大好きでした。

大好きです、大塚さん。

私の人生にライターとして、一人の女性として、

音源を出したアーティストとして、

足跡を残してくださったこと、感謝しています。

大好きです、大塚さん。

大好きです。

ありがとうございました。

 

また会える日が来るのを、

 

感傷が大塚さんの文章に寄り添うのを越えて、

私が年齢を重ねて大人に、女に、生きていったら、

 

いつかまた会ってください。

 

大塚さん。

 

 

こたにな々 

 

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また春が来ました。2016.03.31

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